福山・府中 自宅葬・花葬儀のことなら花むら

福山花むらの花葬儀は、大好きな自宅で、大好きな人たちと花に囲まれながら、最期のときを一緒に過ごす特別なお別れの場を提供しています

住み慣れたご自宅で、故人とご家族の最期の時間を、花に囲まれて過ごしていただきたい。
心から別れを惜しむ、大切な場を「花葬」という形にしてご提供いたします。
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父とのドライブ〜花葬儀のプロとして娘としての最期の時2〜

こんにちは。

大切な人との最期の時間を大切に。自宅葬・花葬儀をプロデュースする福岡史花です。
 
89年の生涯を閉じた父は現役時代は中学校教師をしていました。
神石で生まれ育ち、母が昔では珍しく1人っ子であったため養子に来たのが65年前のことです。
 
その当時の事を親戚の叔母達に聞くと、それはそれは大恋愛の末の結婚だったとか。
 
父の両親が頼むから養子には行って欲しくないと頭を下げて頼んだのを振り切って、若林(私の旧姓)の養子として母と一緒になったそうです。
 
1年半前に私と同居をすることになり福山市民となってからは、父の実家である神石高原町の近田にも三和の自宅にも帰ることのない生活をしていました。
 
その事を思うと、もう一度父の実家と我家に連れて帰りたいという思いが湧いてきて、もし息を引きとる時間が日中であれば、「神石に連れて帰ろう!」と妹と決めていました。
 
そして段々呼吸が浅くなりご臨終ですと告げられたのが、午後0時20分だったので搬送車は頼まず私の車で連れて帰ることを看護師さんに伝えました。
 
私達姉妹が思ってたことが伝わったのか、父も帰りたかったのかわかりませんが、ドライブするにはとっても良い天気でした。
 
入院していた病院が市内北部だったので、神石に帰る時間も短く、福山に連れて帰る前の2時間コースでしたので、父の体を綺麗にしてもらって着替えができたらすぐに私の車に乗せて出発しました。
 
最初に父の生誕の地である仙養ヶ原周辺のコースを叔父の話を聞きながら回りました。
 
私も知らなかった事ですが、父と母が教員時代知り合ったのが仙養中学校だったとか。
廃校にはなってますが、まだ建物があるというので、上がってみました。
古い校舎はそのままで、父も懐かしくて昔話でも始めそうな気がしました。
 
そこからの山並みはとても美しく、この景色を見ながらまだ独身だった両親がどんな話をしていたのか、聞いてみたくなりました。
もっと早く連れてこれたらと、後悔です。
 
両親の恋愛時代の事はかなり有名だったと聞いてはいますが、具体的な事は娘には話してくれなかったので、本人の口から聞きたかったです。
そこを後にして父の実家の前を通り、仙養ヶ原のゴルフ場を通り、三和の自宅に向かいました。
 
自宅で亡くなれば組内(隣組)のみなさんが葬儀を仕切ってくださいますが、今回は福山の家で家族葬をする事にしていましたので、事前に元の自宅の両隣のお宅には電話連絡をしておきました。
父の遺影や仏壇の御本尊様を取りに帰るので、時間があれば会って貰えればとお伝えしていたら、ずっとお世話になってる4軒のみなさんと、今年の父の誕生日を一緒にお祝いしてくれた友人が、私達の帰宅を待っていてくださいました。
そして父との別れを順番にしてくださいました。
 
父が福山に転居する時にご挨拶した方、してない方もおられて「最期に会う事が出来て本当に良かった。知らせてもらってありがとうございます。」と言って下さいました。
 
父の功績や神石での教え子の皆さんや同僚の先生、友達、校長会での繋がり、お世話になった方々の事を考えると、家族だけで葬儀をするという事は、父の最期に会って頂けなかった方々にはとても申し訳ない思いでいっぱいです。
 
しかし父も現役を退いて30年、本人も家族だけで見送ってもらえればそれが一番だと常日頃から話をしていたので、迷いなく福山の家で自宅葬にする事にしたのです。
 
ゆっくりお別れをしたかったのですが、途中お寺に連絡して通夜はせず、枕経をお願いした19時までには祭壇の準備を終えるためにも、なんとしても5時には帰らないといけなかったので、皆さんにお礼を言って福山の家に向かって4時過ぎに出発しました。
 
こうして涙しながら、また笑いながら、父との最後のドライブをしました。
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今回の父の最期に関しては、私が勧めている花葬儀、自宅葬の一例として、ブログで順を追ってお伝えしていきます。

 前回の記事はこちらです。

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